2011年11月25日

運命の一日

別にいつ死んでもいいって思ってた。 でも「死ぬ」のと「死にかける」とでは全然違う。 実際、口に出してなら、「死んでしまいたい」と言ったことは何度もある。 でも実行に移すのは怖くて無理だと思った。 まさか飛び降りるとは。 2004年、9月11日。 私は飛び降り自殺をした。 でも、私には飛び降りる気なんてなかった。 私はその前日とさらに前の日に徹夜をしていた。 その結果、錯乱状態に陥り、飛び降りてしまった。 だから、飛び降りたときの記憶は一切ない。 気が付くと、病院のベッドの上だった。 私は自分の体の状態をすぐ悟り、なにかとんでもないことが起きたのがわかった。 意識が目覚めて最初に言った言葉は「殺してください」だった。 「病院だから無理です」と軽く返されたけど。 それから、私の4年に及ぶ入院生活が始まったわけである。  私が自殺したのは2日間徹夜したためと書いたが、原因はネットだ。 2000年に20万円もした、デスクトップパソコンを買って、それに夢中になっていた。 最初のうちはコミコミコースで、ダイヤルアップで、月10時間しか使えなかったパソコンが、ADSLの登場によって、安くて常時接続できるようになった。もともと欲しくてたまらなかったので、ネットにはあっという間にはまりこんだが、常時接続できるようになって、拍車がかかった。特にそのころは2ちゃんねるにはまりこんでいた。 バイトは郵便局で一日4時間だったため、家に帰ってから、寝るまで、ずっとパソコンに向かっていた。真昼間から、エロ動画を保存していた。で、2ちゃんねるに入り浸る。徹夜もしばし、していた。自殺する前々日は2ちゃんねるをして、徹夜した。そして、そのままバイトに行き、ご飯に誘われた。断らずに行ってしまった。徹夜していたので、ハイだった。そして家に帰り、ネットをした。 その日は自分の好きな芸人がネットテレビに出るというので、元々すごく楽しみにしていた。その芸人だけじゃなく、その芸人と仲いいけど、からんでるのをあまり見られなくなった芸人もでるというので、楽しみは倍増だった。今はその二人、二人でトーク番組やってるけど。退院して、二人がトーク番組始めると知ったとき、うれしいけど、なんか複雑だった。あの当時はあんまり二人の絡みが見られなかったから、徹夜したんだよなあ。なのに番組始めるのかという感じで。 で、徹夜したけど、その時からすでにおかしかった。意識がもうろうとして、パソコンの画面に向かってしゃべりかけていた。で、1時間ほどまどろんで、バイトに行った。朝、6時半からだったので、5時起きして。 自殺当日は完全におかしかった。それでも郵便局の仕事はなんとかした。簡単なので、できた。 その時には世界は私が支配しているという妄想に陥っていた。で、これはやばいと思い、急いで家に帰った。家に帰ってからは、完全に錯乱し、私の好きな芸人と結婚すると叫んでいた。 母や姉にも言って、二人は混乱していた。私の頭の中ではその芸人さんがテレビに出て、私と結婚しますと発表するという妄想ができあがっていた。 心配した姉が「とりあえず、寝たら」と勧めてきたので、自分の部屋に行った。そして、他の芸人さん、ごめんなさい、私は○○と結婚しますと言っていたのまでは覚えている。 で、そこから先は記憶がなくて、気が付くと病院のベッドの上だった。気が付いたのは何日か後だろう。日付は当然覚えてないが。 母によると、私は水着に着替え、ベランダまで行き、「死ななあかんねん」と言って、止めるまもなく、ベランダの植え込みの所から、ジャンプしたらしい。母は恐ろしくて下が見れなかったらしい。隣の人が通報してくれた。 私はおぼえてないので、痛みもなんにもなかった。失敗だったのは、私の家が市営住宅の7階だったことだ。私は、肋骨骨折、両大腿骨折、骨盤骨折、左上腕骨折、右脛骨内果骨折と合計5箇所骨折して、救急のさらに救急の所に入った。後、肋骨骨折のため、肺もやられていて、酸素マスクもしてたらしい。今日、改めて資料を見て、肋骨骨折してたことがわかった。たぶん、左から地面についたらしく、左足は開放骨折してた。後から骨は空気に触れると非常にまずいと聞かされた。事実、骨髄炎なってしばし私を苦しめた。 姉は仕事に行ってたので、急いで帰ってきて、病院から手続きしないと、何百万もかかりますよと言われ、泣きながら、区役所に走ったそうである。高額医療の控除をしに。そのほかにもいろいろ回ったらしい。姉は「妹が死んだらどうしよう。でも手続きしなきゃ破産だ」と泣きながら、役所、病院回ってくれたらしい。そのかいあってか、書類は通ったらしいけど。姉には本当感謝。 今でも皮肉に思うことがある。自殺前日、何人かとご飯した後に、改めて郵便局の男性と二人きりで、お茶して、結構いろいろ話したのだ。私はその時、「精神病院に行ったほうがいいかなあ」と相談している。相手は「精神病院に行くのは、全然恥ずかしいことじゃない。実は自分の身内にも精神病の人がいる」と言っていた。私達は色々語り合い、仲良くなれたのに、私の自殺で全部パァになってしまった。残念である。 でもその日、ご飯を断って昼間寝てたら、と思うと後悔はつきない。大体、高校生の時から、うまく高校になじめずに、自殺願望があった。実際、手すりに手をかけたこともある。でも、怖くてできなかった。家が7階だったので、ここから飛び降りたら、死ねるんだろうなあと漠然と思っていた。それからも、辛いことがあると、死にたいと思っていた。このままじゃいかんなあ、病院行かなきゃと思いつつ、そのころは、保険証が一人一枚ではなかったので、母の扶養に入っていた私は、保険証を持ち歩けなかったので、行かずじまいだった。 保険証のこととか理由つけてないで、そこらへんの精神科の病院に駆け込んで、実費でも払っていたらと思う。 でもおそらく2日徹夜しなければ飛び降りなかっただろう。それは今でもすごく後悔している。 気が付いてみると病院だった。自分の体がかなりやばい状態になっていると感じた。 とりあえず、動けない。 意識が戻って、何日間は朦朧としていて、目覚めては自分の状態に絶望みたいな感じだった。自分の左足が引っ張りあげられているのがわかった。後で聞くと牽引していたらしい。 それから何日かして、手術することになった。14時間にも及ぶ大手術だ。 といっても、私は全身麻酔で何も記憶にない。 大変なのは手術してくれたお医者さんだ。あと、家族。 なにが起きるか分からないので、14時間待っててくれたらしい。 足の手術をしたんだと思う。左足が時間かかったんだろう。 母は手術が終わった瞬間、帰ったらしいが、姉は待っていてくれた。 手術終わった後、対面したのを覚えている。輸血もしたらしい。 で、左足に創外固定をした。 二度目の手術は左肩の手術だった。これは5時間で終わった。やっぱり姉が待っていてくれた。 私が「肩が痛いねん」と言って、姉の手を思い切り、大丈夫だった右手で握り締めた。姉は黙って握っててくれていた。 手術した後は、あちこち痛かった。看護師さんを呼んで、痛み止めをもらうんだけど、効いて来るのが、三十分後なので、ある日、あまりにも耐えられなくて、舌に直接塗ってもらった。天井から、薬やらファイルが移動する病院だったけど、痛み止めが来る時間まで長かったこと。あんなに痛い思いは二度としたくない。ギブスは救急にいるとき、外した。電動のカッターみたいなので、ビィーンと取っていった。それ自体はまったく痛くなかった。 この手術の後、肩がすごく痛くて、夜中にナースコール押しまくったら、そこは救急のさらに救急だったので、看護師さんに「あなた、一人にかまってられへんねん」と言われた。それでも、私が「痛いです」というと、夜中にも関わらず、部屋を移された。男性の看護師さんによって。 ほかの看護師さんが「いいの?」とか聞いてたけど、「いいよ」って感じで、救急の大部屋に移された。そこには意識不明の人もいて、ずっと父親らしき人が名前を呼んでいた。私はこのころから、ご飯を食べだしたけど、最初は酸素を吸わされていた。で、ごはんの時だけ、外すみたいな。骨盤骨折をしていたので、コルセットをつけていた。 非常に起き上がるのが辛かった。右手以外の全部にギブスをしていて、左足には創外固定をしていたので、非常に重かった。 左肩、内旋何十度は動かしてはだめと書いてあった。どこまで動かしていいかわからなくて怖くて、動かさなかったら、ひじが固まってしまった。 この時は、精神がめちゃくちゃ不安定で姉が来るたび、「殺してくれ、死んだ方がよかった」とわめいていた。看護婦さんにも「治ったら、36階から飛び降りる」っていって困らせていた。 自分で左肘動かす気なかったし、先生も足に夢中であまり気を使ってくれなかった。 どんどこまで落ち込んでいたので、固まるなら固まってしまえと思った。 でも私が一番嫌だったのは時間が進まなかったことだ。病院にも慣れてないし、動けない。時間がすぎない。気が狂いそうだった。そんな時、看護婦さんがラジカセを持ってきてくれた。私は、めちゃくちゃ真剣にラジオを聞いた。そのうち、カセットテープをもってきていいと言うので、もってきてもらった。B'zとか姉が昔好きだった大江千里を聞いた。右手だけでカセットを入れ替えていた。救急だったので、ナースコールがなく、看護師さんを呼ぶ方式だった。 カセット落として、大声で看護師さん呼んだら、「そんな、しょうもないことで、大声出さないで」と言われた。確かに看護師さんにとってはしょうもないことかもしれないが、私にはめちゃくちゃ重要なことだった。 で、そのカセットが落ちたぐらいで大声だせるんだからと、救急の救急から追い出された。でもまだ一般病棟ではなかった。記憶が前後するんだけど、同室の患者さんは4人部屋で、向かいが拒食症の女の子、隣が、2年間、意識が戻らないおばあさんだった。もう一人は覚えてない。拒食症の女の子には、いつもお母さんがべったりついていて、すごくうらやましかったのを覚えている。確か、下の名前が一緒だったような。隣のおばあさんの所にはおじいさんが毎日朝来ていたのを覚えている。その人は私にお守りをくれた。ある日、私がかんしゃくを起こして、ごはんを全部ひっくり返したら、看護師さんがさっさと片付けてくれた。「何してんの?」と怒られた。「時々こうなるんです」と言われた。その時、向かいの拒食症の女の子のお母さんがおにぎりをくれた。2つくれたけど、1つしか食べられなかった。でもうれしかった。片付けてくれた看護婦さんはもう怒ってなくて、私が村上春樹の本を詰め込んで持ってきてもらってたので、「なにがおもしろいの?」と聞かれ、「蛍、納屋を焼く、その他の短編」勧めた。「もう怒ってないんですか」と聞くと、「怒ってないよ」と言われ、看護師さんって切り替え早いなあと感心した。 その後、やっと一般病棟に移れた。救急のころはエアーマットだったのが、普通のベッドに変わったので、最初のうちは硬いなあと思った。一般病棟はテレビがつけれるので、つけてもらった。すごくうれしかった。最初は上のテレビ台みたいなところにつけたんだけど、私が余りに目が悪すぎるので、横に付けてもらった。このイヤフォンがしばしば体に巻き付いて見当たらなくなって、ナースコール押したら、しょうもないことで、ナースコール押すなと看護師さんに怒られた。一般病棟は二人部屋で、もう一人は6階から落ちた人だった。でもガードレールがクッションになって、私より状態はずいぶんましだった。でも同じ飛び降りと言うことでなんだかうれしかった。その頃からリハビリが始まった。その人がめっちゃ熱心にやるのに対して、私は全くしなかった。部屋でもリハビリしなさいと指示されたけど、無視だった。相変わらず「殺してくれ、殺してくれ」言って、姉が泣いていた。私がしつこく責めるので、姉が「無力やなあ」と言うと、同室の人が「お姉さんは無力じゃありません」と言ってると、偶然、精神科の先生が現われたのには奇跡みたいと思った。 救急からずっと主治医の先生はN先生だった。優しい顔だけど、かなり厳しい先生で、ガーゼを毎日変えてくれるんだけど、痛い左腕を持って、動かされたりした。思えば、このころから、N先生は私がリハビリしないって見抜いてたかも。そういえば、このころは、着物みたいな寝巻きを反対向きに着ていた。まだ救急にいたときだ。 ある日、おかしいから、前側に変えたらと誰かに言われ、ちゃんと着なおした。どちらにしろ、寝巻きはしばらく続いたなあ。 で、救急の救急のころはN先生が見てくれてたけど、ちょっと症状が落ち着いたら、研修医さんに変わった。女性だった。責任者はN先生だけど、普段見てくれるのが。最初はきれいで、やさしそうな先生と思っていたけど、きつかった。でもきついぐらいじゃないと医者ってできないんだと思った。この人が私が片手で本読んでたら、「本、読んでる!!」って感動してくれたのを妙に覚えている。リハビリの先生も当たりは柔らかだけど、厳しかった。私が自主的なリハビリを全くといっていいほどしなかったから。とにかく「死にたい、殺してくれ」の一点張りだったので、N先生が心配して、一般病棟から精神科に移してくれた。私がすぐリハビリ専門の病院行きたいですといったら、だめだった。2ヶ月目のことだった。2ヶ月精神科にはいた。 私があまりにも精神不安定だったので、心配した先生が精神科に入れてくれた。精神科は12階にあった。窓には柵がしてあったし、大体開けられなかった。でもなんで12階?とは思った。鍵がついていて、がっしゃんと閉められて、いちいち開けてもらわないといけなかった。そのころ、もうすでに、ひじは曲がらなくなっていたと思う。でも気にかけてもらえなかった。飛び降りたときに精神の病名は付いてて、統合失調症だった。    やっぱりと思った。母も同じ病気だったから。私が入院する前から、母は精神的におかしくて、髪の毛を自分でむしったり、切ったりして、はげていた。でも心療内科には行ってたので、大丈夫だろうと思っていたが、医者に肝心なことは言ってなかったらしい。この母が後に大事件を起こした。 私は、精神科で、最初は若い人と一緒の部屋だったけど、リハビリから帰ったら、ナースステーションに一番近い部屋に移されていた。要注意と言うことだろうか? その時の隣のおばあちゃんが、ご主人がいるときは機嫌がいいのだけど、いなくなった瞬間から、「看護婦さん、看護婦さん」と大声で何回も呼ぶので、非常にうるさかった。 「頭がいらいらするから、薬くれ」ということだった。ご主人がいるときは、本当にうれしそうだったので、本当に好きなんだなあと思った。ご主人もすごく優しい人で、車椅子で、院内回ったりしてたし。だから、いなくなったとたん、看護婦さん、攻撃なんだあと思った。姉が仕事終わって、晩に来てくれてたので、やきもちやかれたりした。でも精神科に行ったおかげで私はずいぶん落ち着いた。薬を飲んでなかったので、飲み始めたせいかもしれないけど。隣のうるさいおばあちゃんは、夜になるとどこかに移されていた。迷惑だからだろう。そんな時、私に2週間だけ実習生がついた。その子は年下なので、お姉さんぶれるのがうれしかった。短い付き合いだったけど、楽しかった。最後に私の似顔絵書いたメッセージを書いてくれた。大事に取ってある。 おばあちゃんにやきもちやかれるし、うるさいしで、耐えがたくなってたころ、新しい人が入ってきたので、私は奥の病室に移された。ほっとした。3人部屋で同室に、目がほとんど見えないけど、ちゃんと歩ける人と、精神の薬をぽりぽりお菓子みたいに大量に食べて入院して来た人がいた。その人は、最初、私が始めにいた部屋に来たんだけど、明らかに様子がおかしくて、うるさいおばあちゃんに「あんた、出て行き」と言われてた。一日で姿が見えなくなったので、多分閉鎖病棟にいったのかなと思った。今、考えると。 でも私が部屋を移った時は、ずいぶんまともになっていた。その3人で1月5日まで、楽しくすごした。いつもお風呂の順番を取りに行ってたのが印象深い。私はもちろんお風呂に入れなくて清拭だった。一般病棟から、精神科に移るとき、移る儀式として、シャワーを無理やり浴びさせてもらったので、すごくうれしかった。きれいにして移るそうだ。看護師さんがかなり無理していれてくれた。感動した。 私が、一般病棟から、精神科に移るとき、一緒に移ってきた研修医の先生がいて、あやうくその人に恋しかけた。でも、12月23日に意中の人と食事に行ったと言ったので、すぐあきらめたけど。というか、先生には恋しやすくなっているんだなあと思った。目のほとんど見えない人がすごくいい人で、毎日、3人分、結構たくさんのお菓子を売店で買ってきてくれた。毎日食べていた。恋しかけた先生にあちこちにお菓子があるのを見つけられて、注意されたけど、聞いときゃよかったと今は後悔してる。だいぶ太ったから。 でも買ってきてくれるのを食べないのも悪いし。 で、元旦は精神科で過ごしました。事前におもちを選んでいたので、3が日は、雑煮ですごせました。とてもうれしかった。精神科にはテレビがないので、ベッドごとM−1を見に行った。笑い飯が見れてよかった。最後までは見れなかったけど、アンタチャブルが優勝した。今となってはアンタチャブル…….って感じだけど。 レコード大賞のマツケンサンバも見れてよかった。紅白はビデオに録画してもらったけど、いまだに見ていない。多分今後も見ることはないだろう。今はビデオ自体どこにあるかわからないし、ビデオデッキは使えるけど、探す気もないし。。 1月5日に薬食べた人が退院して寂しかった。住所をいまだに覚えてるけど、家の近所だけど、一生会うことはないんだろうなあ。もう向こうも絶対覚えてないだろうし。 で、1月6日から、新しい人が入ってきたけど、この人ともすぐに仲良くなった。で、3人でランランランって感じだった。摂食障害の人だった。お母さんとの関係が複雑らしく、みんな大変なんだなあって感じ。この人は生活保護の申請の仕方を他の人から聞いてた。その時、初めて、生活保護って貯金があってはいけないんだと知った。 下はずっとオムツを変えていたので、オムツ代がバカにならないなあと思っていた。バルーンをずっとしていた。そんな楽しかった精神科生活も私が1月31日にリハビリ専門の病院に移るので、終わった。最後に、目の悪い人がすごく大きい字で、手紙を書いてくれたので感動した。ストレッチャーで、下まで降りたが、目の悪い人や看護婦さんが引っ張っておろしてくれたので、ドラマみたいと思った。N先生は1月中に病院移したいと言ってたので、ぎりぎり約束は果たされた。 その前に一度、リハビリ専門病院を受診した。受け入れてくれるかどうかというのを尋ねるため。その時、見てくれた先生がH先生と言って、とても変わったしゃべり方をする先生でした。なんとなく長い付き合いになるんじゃないかと言う予感がした。私を受け入れるかどうか、H先生とリハビリ病院の院長とN先生と姉とで、30分くらい話し合いした。私は好きになりかけた研修医の先生と待合室で待っていた。 N先生がH先生にかなりぼろくそ言われたらしく、温厚な先生にしては帰り珍しく怒ってた。姉もへとへとという感じだった。H先生はかなり嫌がっていたみたいだ。 でも院長先生が「受け入れます」と言ってくれたらしい。「どうせ、僕が診なくちゃいけないんでしょう」とH先生は言ってたらしいけど、そのまま、ずばり当たってた。 リハビリ専門病院に移動したときはどきどきものだった。それまでは家の近くの救急病院だったけど、今度は電車乗って、さらにバスと不便なところだった。私の意思ではなく、病院の治療の関係上個室だった。でも古い病院だったので、そんな豪華という感じではなかった。一人部屋で気楽だけど、さみしいなあという感じだった。でもその割には1日目は昼ごはん食べた後、夕方まで寝てた。ごはんはこっちの病院の方がおいしいかなあという感じだった。 2日目にリハビリの先生を紹介された。女性の先生だった。優しそうな感じだったので、よかったなあと思った。初めの日は曲がる角度とかを測って、終わりだった。次の日から、本格的なリハビリが始まった。 姉は不自由なところなのに毎日きてくれた。母は精神不安定のため、来なかった。そして事件が起こった。 最初はちょっとしたことだった。よく聞くとちょっとではなかったけど。母が突然病院に来て、H先生に話を聞くために予約して待っていた人を全部抜かして、一番に入り、先生に「うちの子、どうでしょうか?」と聞いたらしい。 後から聞かされて、うん、ちょっとおかしいなと思った。 そして事件は起こった。母が病院にハンマー持ってきた。で、人には危害を加えなかったんだけど、病院の物を壊した。たぶん、ハンマーをガツーンとそのへんの備品にぶつけたんだろう。 で、姉が仕事先から呼ばれて、慌てて母を迎えに行った。 帰りに姉は母にけられたらしい。私じゃ手に負えないと思った姉は、母を精神で有名な病院に連れて行って、即刻入院させた。 姉は二つの仕事と、二人の入院患者を抱えて大変だったらしい。でも私のところには毎日来てくれた。本当ありがたかった。母のところには最低限ですましたらしいが。 母は3ヶ月で退院した。統合失調症の再発と言うことだった。母は若いころ、この病気になり、結婚して治っていたけど、何年か前から再発してたようだ。髪の毛、むしったり、テレビで私のこと言ってるって、典型的な被害妄想に陥ってたから。私達、家族がまともに取り合わなかったのが、悔やまれる。退院後、母は陰性症状になり、無気力になったらしい。ハンマー持ってきたときは陽性症状だったらしい。 私はハンマー持ってきたのも、その場ではすぐ知らされなくて、何日か後に知らされて、びっくり仰天した。ただ閉鎖が決まっていた病院だったので、壊した物の弁償はしなくて済んだのが唯一の救いだった。 昇降機を使って、立たせてもらうのをしていると、H先生が「早く歩かせたいんだよなあ」とリハビリの先生に言ってた。その立たせてもらうのは、最初の病院でもやってたので、リハビリ病院なので、やっぱり歩かせたいんだなあというか、歩けるんだあとうれしくなった。 それで、3度目の手術をした。ピンをいれて、歩ける方向にもっていくというものだった。なぜか局部麻酔で、脊髄から麻酔した。だから途中までは寝てたんだけど、途中から起きてしまった。自分が縫われてるのもはっきりわかった。うわあー早く終わってくれと思ったが、それから1時間以上かかった。二度と局部麻酔はやらないぞと心に誓った。 そして、ピンをいれたのけど、次の日ぐらいから、39度ぐらいの熱が5日間ぐらい続いて、ピンを抜くことになった。4度目の手術だ。ピンが体に合わなかった。拒絶反応の熱が出てしまった。  4度目は全身麻酔でと頼んだ。だから記憶にはない。4度目の手術は足を5cm短くして、コンクリ片を埋め込むというものだった。なぜ、足を短くしたのか説明がなかった気がした。そういえば創外固定は前の病院ですでに外されていた。創外固定の所が菌かなにか入って痛くなり、外さざる得なくなった。最初、ねじを取るときは痛かったけど、一瞬だった。 なくなってすごくすっきりした。でもそのためにぐらぐらだからピンをと言うことだったんだけど、合わなくて抜いて、コンクリ片を埋め込んだ。その後、なんか管みたいなのを張り巡らされて、なかなかリハビリができなかったのが、辛かった。でも、それもなんとか終わり、またリハビリに戻って行った。そして、半年以上たったころ、リハビリの先生が交代した。 今までやってくれた先生が産休に入ったからだった。2番目の先生は誰もやってくれなかった、左ひじが曲がってるのをまっすぐにしてくれた。その先生がずっとついてくれていたら、左ひじも治ったかもしれない。 が、ある日、H先生から話があった。足を伸ばす手術を別の病院でやらないかということだった。まず、足を伸ばして創外固定をして、わき腹かなんかの骨を付けて伸ばすという説明だった。だから、その左ひじを治そうとしてくれた先生とはお別れしないといけなくなった。 その前に結婚して、で、ご主人の仕事の都合で、病院をやめてしまった。だから、左ひじが治ることはどっちにしてもなかった。 H先生から話を持ちかけられて、姉と二人どうすると悩んでいたが、結局手術することにした。駅に近くて便利な病院だった。ただ欠点もあった。忙しい病院だったので、リハビリは10分くらい、バルーンをつけられた。リハビリ病院ではリハビリは40分くらい、小は、尿器でとってくれた。大は便器で。バルーンは楽だけど、自分でしているという感覚がないのがイヤだった。リハビリ病院で週2回シャワー浴びさせてくれた。髪の毛が長かったので、切って欲しいといわれた。たぶん長いと洗うのが面倒くさかったんだろう。なかなか乾かないし。シャワー浴びるのは女性全員だし。下に美容院があったので、予約して切った。髪の毛切るのは嫌だったけど、しかたなかった。結構高かった。 でも火曜・金曜とシャワー浴びさせてくれるのは気持ちよかった。ストレッチャーで入っていた。髪の毛がべたつくので、シャンプーだけにしてもらった。その後、ベッドに戻るんだけど、いつも、ナースコールがちゃんと戻ってるか不安でしかたなかった。動けない私にとってナースコールは命綱だった。最初の病院やリハビリ病院はベッドが電動で私はそれをスイッチで上げて、ごはんを食べればよかったんだけど、3番目の病院はベッドを上げるのが手動だったので、気を使って、がんばって自分の力で背中を支えた。背中が鍛えられて、返ってよかった。人間、せっぱつまらないと、なかなかしないものだなと思った。 3番目の病院で、5度目の手術を受けた。足を伸ばす手術だ。これも全身麻酔で、終わった後には、真っ赤な創外固定がついていた。不思議とこの時、何を着ていたのか思い出せない。もうとっくに洋服になってたので、はみだしたはずだよなあ。でもとりあえず、その創外固定をしたまま、リハビリ病院にいったん戻った。また重たい創外固定とのお付き合いが始まった。看護婦さんに創外固定が出てもいいような太ももの外側が空いてるズボンを作ってもらった。リハビリ病院はいろいろしてくれていい病院だった。 ただ困ったのは、入院費。自殺だから、実費。そしてH先生が身体障害者手帳を申請してくれなかった。出した時点で、治療が終わるとかたくなに言い張って、どうしても申請してくれなかった。 ケースワーカーの人も「あの先生は融通がきかなすぎる」とため息をついてた。やっぱり最初の変わり者の印象は、間違ってなかった。ただいい先生でもあり、毎日「何か変わったことはありませんか」と聞きに来てくれた。毎日聞かれてもないよと思ったが、来てくれるのがうれしかった。ただ入院費は5万円かかってしまった。本当に貯金しててよかったなあ。ケチくさく貯めていたので、結構貯金があったのだ。それがなかったらと思うとぞっとする。 障害者手帳申請後は入院費が2800円だったので、やっぱりちょっと恨んだ。 リハビリ病院では2年近く入院してたので、いちいち同室になった人を覚えてないけど、一人とても印象に残った患者さんがいた。Kさんで、私が入院してる中で私よりひどい状態の人を初めて見た。その人は脊髄損傷だった。バイクで、車にはねられ、救命救急のような病院に運ばれ、その病院でなければ助からなかったみたい。でも、脊髄をやられ、首から下は手がほんの少し動くだけだった。小さい床ずれができていて、8時間、姿勢を変えずに車に乗っていたら、すごく大きくなってしまって、入院して来た。私は自分よりひどい状態の人を見るのが初めてだったので、すごく驚いた。Kさんも、やっぱり、最初は絶望して、お見舞いに来る人ごとに「首絞めて」と頼んでいたらしい。Kさんのご主人は仕事をやめて、奥さんにつきっきりだった。朝は、看護師さんが食べさせるのですが、昼前にご主人が来て、晩までいて、昼、夜ごはんを食べさせてた。娘さんが二人いるけどが、一人はヘルパーになって、お母さんのことを2日に1回お風呂に入れてあげるらしい。たぶん、リフトを使って。家にエレベーターを付けたというので、漠然とお金持ちなんだろうなと思った。エレベーターつけるのにすごくお金かかったけど、補助金は20万だったと嘆いてたのが印象的だった。お金持ちだから、国の補助がでなくて、お手伝いさんを雇ったら、一月50万かかるので、ご主人が仕事をやめたらしい。いいご主人だなあと思った。Kさんもすごくいい人で、ずっとしゃべってた。というかしゃべってないとやりきれないんじゃないかなと感じた。私だったら、気が狂ってるかもしれない。とても活動的な人だったようなので、悲惨だなあと思った。夢の中で歩いてる夢を見て、わー私、歩けてると言いに行こうとするけど、夢だったというところはとても共感した。私も夢の中では歩き回っていたから。私が脊髄損傷になってたらと考えると、私はすごく運がよかったんだとKさんを見て思った。その後、足を伸ばす手術するために3番目の病院に行った。レントゲンを見た結果、骨ができかけてるので、しばらく様子見になった。で、そこは救急病院なので、緊急性のない患者はおいてけないらしく、そこの系列で長期入院できる病院に移った。 そこはほんまに最悪だった。何か病院で着る服を借りないといけなくてレンタル料金がかかった。 気晴らしのためか音楽が流れてるんだけど、これが暗くて単調で聞いてるだけで鬱々した。これが朝から寝るまで延々流れてるので、うっとうしいこと、この上なかった。 一番嫌だったのは、大便をオムツの中でさせられたこと。すごく抵抗あったし、屈辱だった。結構元気な人もいて、家において置けないから、病院にいるって風だった。なんとなく姥棄て山って感じで一番雰囲気が悪く気分もどんどん落ち込んだ。母は救急病院には毎日、うっとうしい病院には、2日に1回来てくれた。姉は私が状態悪い時は毎日来てくれたが、私が落ち着くと来なくなった。 最初の頃は一週間会えなかっただけで、お互い涙の再会だったのに。確実に私がいる、状態も落ち着いてからは来なくなった。一週間に1回ぐらいしか。2年目ぐらいから。逆に私の入院が長引きそうなので、仕事を3つかけもちして、入院費を稼いでくれた。入院費は自殺未遂だから、保険が出ず全部自費なのできつかった。高額医療しているとは言え、入院費月5万、オムツ代、尿とりパット代、家族の見舞いにくる交通費と月8万くらいはかかってたのでは。私も貯金それなりにしてたけど、全部使いきった。でも貯金しといてよかった。でも私はケチだから、私の貯金には手をつけないでと最初言ってた。すごく図々しい。私が悪いのに、貯金使わないでとは。でもケチケチ貯金しといて本当によかった。そして、なにでお金がなくなるかわからないから、それからはある程度使とけ、使とけに変わった。死んだらお金使えないもの。姉の変わりに母が来てくれるようになった。家族が二人いてよかった。父親はすでに亡くなっていた。私が飛び降りたのは、父親が死んで2年目ぐらいだったけど 、父親がいなくてよかったと思った。たぶんあんまり心配しないで責められると思ったから。父親は常に怒ってた印象が強い。母は自分も調子よくないのにほぼ毎日来てくれてありがたかった。最悪な病院では、母が同じ市営住宅の信頼できる人連れて来て、身体障害者手帳を取ってくれようとしたりした。でも母も最悪な病院が嫌だったのか申請下りる前にリハビリ病院に戻った。本当に脱出って感じだった。リハビリ病院に戻った時、心底ほっとした。第2の我が家って感じた。そこで骨くっつくのを地道に待ってたが、そこが閉鎖になり、一番最初にいた病院にリハビリテーション科ができたので、そこに戻った。2007年の3月1日に移った。ぎりぎりの2月いっぱいまでいた。病院変わるのは寂しかった。でももう少し遅く入院してたら、病院変わらずにすんだのにとちょっと思った。最後まで入院してたのは私とKさんぐらいだった。みんなが余ったテレビカードを持って来てくれたけど、使い切れなかった。私はケチだから、テレビカード使うのも最小限だった。何分かごとにカー ドの数字が減って行くのがつらかったから。でもリハビリもろくにしなかった私はひたすら暇だった。当時ちょっと書いてあった日記見ても暇だばかりだった。とりあえず本は好きだったので、本は読んでいた。宮本輝とか司馬遼太郎とか読んだな。たまたま姉が図書館で借りて来てくれたので石田衣良と村山由佳が気にいった。特に村山由佳は小説は全部読んだ気がする。その頃と作風がずいぶん変わった。その頃読んでたシリーズが続いていて、主人公があんなに暗い運命をたどるとは思いもしなかった。時の流れを感じる。 でも本はほとんど図書館だったので、姉が来てくれないと滞る。100均のめっちゃシンプルなラジオをAM、FM二個買ってもらって聞いてた。2006年〜2007年のヒットソングは結構わかる。Mr.ChildrenのしるしとYUIのチェリーが好きだった。野球の中継をラジオで聞いてた。サッカーの2006年のドイツワールドカップもラジオで聞いて、最後に3点トントントンと入れられたのにはびっくりした。直前まで勝ってたのに。 後たまごっち、ミニテトリス、ニンテンドーDSではやってた脳トレとかやってた。最終的には姉がDVDプレーヤー買って来てくれた。あんまり見れなかったけど。姉がいる時限定だったから。出したり、片付けたりしないといけないから。姉がたまたま及川光博のライブDVD借りて来てくれて、本当に好きなことを自分の好きなように楽しんでやっているなあと感動した。すごくすごくうらやましかった。自由にステージを動き回るミッチー、ベッドに縛りつけられてる自分、対比がきつかった。リハビリで新しい病院になってから、後にも先にも一回だけ立ち上がらせてくれただけで、歩行訓練も何もなかった。主治医も歩くのは難しいと母に言ってたみたいだし。一生歩けないのかと思うと慣れたとはいえ、やっぱり絶望だった。一生ベッドに縛りつけかって感じで。電動車椅子の訓練もしてたけど、一生車椅子もきつかった。結局足の手術はなしになって、骨ができるのを待って、5センチ縮んだのを3センチ伸ばした。この後、創外固定を取ったけど、取る時、引っこ抜くのがめっちゃくちゃ痛くて久々の痛みだったのでこたえた。 時々骨の様子見るのにレントゲン取るんだけど、これもしんどかった。歩けない、両ひざ曲がらないのでレントゲン取る人も苦労してた。いろんなスポンジを入れて、両ひざ外転、内転、左ひじを撮ってた。新しい病院でやっと身体障害者手帳が取れた。部長みたいな人に3ヵ月ぐらい放置されて主治医が催促してやっと取れた。入院費が2800円になった時は嬉しかった。オシメもやっと外れて尿とりパットプラスパンツになった時は感動だった。 私は9時半に寝ていた。 病院の消灯が9時半だったから。私は寝つきが悪く、ネットしてしばし徹夜。で、二晩ぐらい寝なくても大丈夫だろうと油断して飛び降りだった。でも病院ではぐっすり寝れた。しかも寝起きが悪かった。7時半に朝食で起こされるけど、寝ていて牛乳がぬるくなってまずいってことが結構あった。朝はパン食だったので。で、朝食終わったら、また寝ていた。生活態度がなってなかった。退院に向けて生活習慣を改めようってことで、作業療法士さんがついた。作業療法士さんが8時半くらいにくる時、いつも寝ていたので怒られた。朝起きたら寝ないで、服を着る訓練をしなさいと言われてたが、いつも寝ていた。リハビリは、本当にしなかったなあ。でも起きた後は刺繍でクロスステッチとか、ビーズでカーテンレール作り。午前中が時間潰れたので助かった。 ある程度して先生が変わって、ホットケーキとかクレープ作った。ちゃんと材料も買って。久しぶりに食べるシャバの味って感じだった。誕生日にケーキ買ってもらったりしたけど。動けないので食べるのが楽しみだったので、10キロ以上太った。一発発起して10キロ以上やせたが、またリバウンドしている。でも普通のもの食べれるのはありがたい。リハビリ病院、救急病院、最悪の病院は食事がおいしかったが、最後の病院は食事がかなりまずかった。残ないと言うか。        私は食べものの好き嫌いはないけど、まずいなあってしみじみ思った。お茶も吸い飲みでぬるいお茶を飲んでた。私は冷たいものはより冷たく、熱いものはより熱くって温度に敏感なやつだったので、これはきつかった。リハビリ病院のお風呂上がりに一度だけ、冷たいレモネードをくれてすごく嬉しかった。でも4年入院して、最後は飽ききって、退院する3ヶ月くらい前は、毎日「いつ退院できるの」ばっかり母に聞いて困らせていた。母は毎日来てくれたが、途中から自転車に乗れなくなった。母も年取ったし、病気も全然治ってなかった。でも毎日来てくれるのが本当にありがたかった。 しゃべらない人だったので、会話らしい会話もなかったが、いてくれるだけでよかった。退院後、家で面倒みれないんじゃないかってことで施設も見に行った。谷町線沿線と明石市だった。谷町線沿線の施設は軽度の人向けだった。自分でお風呂入れて身の回りのことも一人でできないと無理だった。私は重度なのでダメだった。でもそこは病院と変わらない感じだったので、入れなくてよかった。明石市の方も完全病院って感じだった。2年間しかいられなくて、ナースさんが50人に対して一人で、何でも一人でやるために訓練て感じだった。最終的には車椅子でベッドメイキングができるようになることが目標達成みたいだった。私は無理って思ったし、2年間しかいられないのはって感じで話は消えた。その頃、自分用の電動車椅子ができて、明石市が初めての使用だった。リハビリの先生は簡易電動ってちょっと言ってたが、歩けないからひじが取り外しできないといけないので無理だった。車椅子をベッドの脇に付けて、ボードで移動していた。40万のが1万5千円だった。本当に補 助金はありがたい。施設見に行く時、谷町線沿線は近かったので介護タクシーをたのんだが、明石市は遠いので電車に乗った。既に地下鉄の無料券を持ってたので、谷町線沿線も電車で行けばよかったとみみっちいことを考えた。私の器は極小だと思う。      で、家に帰ることになった。新しい車椅子が家のエレベーター入れるか、帰ってみたら入れたので、後は退院を待つばかりとなった。退院日は2008年の7月31日だった。偶然にも父の命日だった。こういう数字のマジックって存在していると思う。退院した時は本当にやっと終わったんだと晴れ晴れした。でも家に帰ってすぐ問題が持ち上がった。私はベッドとポータブルトイレを業者さんに頼んでいた。私は身体障害2種2級だが、左下肢機能全廃(3級)、左肘関節機能全廃(4級)、右膝関節機能全廃(4級)で合わせて2級だった。合わせて2級ではベッドとポータブルトイレ買うのに補助金が出ない。下肢機能全廃2級以上じゃないと。すごく困ったが、ベッドは母が4年前に私がすぐ帰ってくると思ってとすでに買ったのがある。居合わせたヘルパーさんが、「私の会社に余ったポータブルトイレなかったっけ?」と言い出して問い合わせしてくれたらあった。ついでに移動するボードも見つけてくれた。すごいラッキー。使わせてくれることになった。ベッドのそばにポータブルトイレおいて、ベッドから車椅子に移動しごはん食べる。家で生活できるのは、やっぱり楽だった。 トイレの時間決まっているのは微妙だったが。トイレした後、局部を水で流して、布でふいてトイレにポータブル部分を持って行って流して洗って終わりだった。部屋にトイレがあるのは味噌もくそも一緒って気がした。 匂いとかはすぐ流してくれるので、気にならなかった。でもなんかやっぱり普通ではない障害者なんだと強く意識した。 母も精神的にいまいちだったので、二人とも自立支援で、ヘルパーさんに入ってもらえた。 ヘルパー代が一人3000円だった。途中から法律が変わり収入が少ないので無料になった。そして私は身体障害2級、精神障害2級で合わせて1級で月8万障害基礎年金がもらえた。自分で飛び降りたのに、お金がもらえるなんてと感動した。 国民年金払っててよかった。そして国民年金払うのも免除になった。得したのは、NHK受信料免除、水道代基本料免除、携帯料金割引、市バス、地下鉄私と介護者無料。市の博物館や美術館、私と介護者無料だった。後、精神科の受診料、薬代無料だった。後、医療証があるので、町医者にかかっても500円しか払わないで済んだ。でもそんな特典どうでもいいから歩きたかった。 病院では止まらずにずっとめっちゃ早く歩いている。最後は仏像に行き着く。で沐浴するみたいな感じでお風呂に入るパターンの夢を延々と見た。 仏像はそんなに見たこともないのに、いっぱい出てくるのが不思議だったが、歩くのとお風呂は私がしたくてたまらないことだったので、その夢見ている時は幸せだった。 家のお風呂には入れなかったので、デイサービスでお風呂入らせてもらった。デイサービスは介護保険の施設はいっぱいあるけど、若い人が利用できるところが少なくて、二つの施設に、火曜と木曜行くことになった。 一つの施設はお風呂が機械浴で、本当にお風呂に入っている感じだった。ただ間の時間がひまだった。じっと座ってるだけだったので。本持っていった。 もう一つの施設はシャワーキャリーってお風呂用の車椅子みたいな感じのに座って、椅子ごとお風呂に入った。でもリクライニングできるのでお風呂入っている感じはした。体もそれで洗った。 そこはパソコンがあった。ネットでYouTube見まくった。存在は知ってたけど、携帯の小さな画面だったので。うわあ、B'zのPV見放題やん、本当に無料でいいのかなって感じだった。B'zは元々好きで、ファンクラブにも入ってたけど、ネットにのめりこみ過ぎて遠ざかっていた。でも入院で復活した。同室のKさんはたぶんMP3プレーヤーみたいなので、たくさん音楽を聞いててうらやましかった。私しか家族でパソコンできなかったのでポータブルプレーヤーは夢のまた夢だった。2000円ぐらいのでっかいカセットプレーヤー買ってもらって、B'zのMONSTER、PleasureU、稲葉さんの志庵をローテーションで聞いていた。やっぱりB'zよいなあって改めて思った。ファンクラブにも入り直して、2010年のツアー行った。 で、B'zってPVちらっとしか見せてくれないし、PV集もその時点では全然出してくれなかったのにシングルならPV初期以外はほぼ見れる、ライブ映像も見れまくりで大感動で見まくった。そしてやっぱりパソコンほしいなあって思った。2ちゃんねるも見てたけど、その施設、子供も通ってたので、変なリンクも構わず踏んでしまうので、途中でフィルターかけられて見れなくなった。で、そのデイサービスはうれしいことにリハビリがあった。 最初のうちは足を動かしてただけだったけど、ある時リハビリの先生が「歩けるんじゃないかなあ」って言い出した。 私は、えっ、マジでと思ってただただ驚いた。 嘱託医の先生に見せた時、「この子はどこにも麻痺がないから歩ける」って断言された時は、えっ、ウソ、うれし過ぎるって感じだった。 それから歩くためのリハビリが始まった。途中で火曜に行ってた施設は、老人専門になり、月曜に、そのリハビリ行ってる施設に木曜にプラスして行くようになった。リハビリが週2回になってうれしかった。リハビリして半年で歩けるようになった。本当にうれしくてうれしくてしかたなかった。このデイサービスにいけて本当によかった。よろよろめっちゃゆっくりでも歩けてよかった。それまでは思うようにならない体に退院してからも、ずっと死んでしまいたい、時間を戻したいばっかりだったので。2ヵ月に1回行く精神科でも、死にたい、死にたいばっかり言ってた。ポータブルトイレが便座の部分壊れたのを機会に普通のトイレにもいけるようになった。 でもまだ満たされていなかった。やっぱり精神不安定だった。母もずっと状態が悪く、洗濯する以外はずっと自分の部屋で寝てた。調子悪い者二人で共鳴しあって、ますます悪くなって行く。二人で10階までいったこともあった。飛び降りるために。実際は私が手すりを乗り越えられないから無理だけど。 間に挟まれた姉は大変だったと思う。 あまりに母の具合が悪いので、精神科の病院に入院させた。その時、初めて母が生命保険だけで、入院保険に入ってないって知って、びっくりした。生命保険は父の会社が住友生命を勧められてて入っていた。私、姉、父は入院保険にも入ってたので、母も絶対入ってると思ってた。何で母だけ入ってないのか父が生きてたら、問い詰めたい。私のケチは父譲りなのに、母の保険に入ってないのは不思議だ。母は19歳の時、精神で入院してるから、そのせいなのか、父が保険代もケチったのか?とりあえず入院費どうしようって思ってたら、新薬の治験ってことで、入院費の大部分を製薬会社が持ってくれた。ラッキー。新薬はさっぱりきかなかったが。前の入院の時は私も入院中で預かり知らぬことだったし、姉も入院してる家族二人抱えて言われるまま払ってたらしい。入院保険入らすか悩んだけど、まだ入ってない。 私の入院中、「もし母が入院したら、毎日見舞い行く」って言ってたのに、2日に1回しかいかなかった。私の見舞いに毎日来てくれた母はやっぱりえらい。子供に対する愛情と親に対する愛情って違うのかなあ。母は退院してもさっぱり治ってなかった。私もお皿投げて割ったのと、母にナイフで切りかかって、皿投げの時は救急車2回、ナイフの時は警察2回呼ばれた。それぞれ1日のうちに。興奮すると手がつけられなくなって、救急車呼ぶ→少し落ち着く→また興奮するを繰り返した。警察の時も同じ。でも警察も救急車も事件にならないと動かない。警察は名前控えただけ、救急車も私が入院するって言ったのに、酸素吸入して終わりだった。このまま、一生このいやな気持ち抱えて終わるのかと思ったら救い主がやってきた。 救い主はヘルパーさん、だった。最初はちょっときつい感じのヘルパーさんだなって思ってた。母が世間話の感じで「何もやる気が起きないんです」みたいなこと、いつもの調子で言ってたら、「私は透視ができる」って言い出して。めっちゃくちゃ、怪しいなあって思いつつ、私も見てもらったら、「飛び降りて病院行った時、目が覚めた後、「殺してください」って言ったでしょう」っていきなり言われ、誰にも話してないのにってびっくりして、この人本物かなあって思った。 とりあえず先祖供養するから名前書いてと母が言われ、お金も5000円とられた。私はあまりに怪しいので最初のうちは信用してなかったし、ヘルパーさんの会社に訴えた方がいいのかなって思った。でもしばらくするうちに母の様子が変わって行った。何もやる気ないが口ぐせで洗濯とヘルパーさんに指示しては、後はずっと部屋で寝転んでた母が起き出して、ヘルパーさんとしゃべるようになった。私も念珠を3000円で買わされて、簡単なお経を読んでるうちに気持ちが落ち着いてきた。 それまでずっと精神不安定で姉が仕事行く時「行かんといて」母と二人で言い、夜とか「死にたい、死にたい」、「過去に戻してくれ」ばっかり言ってた。精神科でもとにかく「死にたいです」を訴え続けてたら、精神科の等級を見直す時、1級に引き上げられた。引き上げられることもあるんだ、あんだけ死にたいばっかり言ってたら無理ないのかと思った。そんな私が宗教にすがることによって救われたのだ。 そんな安易なって感じだが、本当のことだから仕方ない。最初はお経読むのも面倒くさいって感じだったから、ヘルパーさんと話すことによって、徐々に回復して行く感じ。 特に母の具合は見る見るよくなった。最初がひどすぎたせいもあるけど。とにかく何もやる気ないばっかりで、やる気ない自分を責めるって感じだった。だから一番ひどい時は洗濯もしたくなかったようだが、かといって姉がしようとすると始めるのが遅いって文句言う。母は眠りが浅いので、朝5時から洗濯する。姉にも同じ時間にして欲しそうだった。でも姉には仕事があるし、わりとスローペースなので、朝5時にはできない。そしたら、ぐずぐず、ぐずぐずしてって怒る。 みんなそれぞれペースがあるのに、自分がしたくないことをやってもらうのに、何で文句言うねんってケンカが絶えなかった。母の何もできひんから始まる愚痴も鬱陶しかった。じゃあ何もせえへんかったらいいやんと言うと洗濯してるやんと洗濯してることを切り札みたいに出すので、鬱陶しかった。 ヘルパーさんがケンカばっかりしてるのを見かねて、「愚痴は子供に言うもんじゃない。私に電話してきなさい」と母に携帯電話をもたせた。9時から21時まで無料通話ができる所の。私がパソコンから買った。やっぱりがまんできなくてパソコンを買ってたので。適当に選んで買った。 それで私らは母の愚痴からだいぶ解放された。母は携帯を買った当初は毎日のように電話してたから。それだけでも大助かりだった。母の愚痴は出口がないのでエンドレスだったから。同時に家族間でケンカが絶えなかったのは、私も母もずっと家にいるからだと気づいていた。ずっと顔を合わせるとストレスもたまる。でも母は家を出る気が全くない。それで私が働きに出たらいいんだと就労センターに行った。 そしたら長年働いてなかったので、いきなり働くのではなく作業所行ってくださいって言われた。私はもっともだと思った同時にがっかりした。それまでひまにあかして、障害者のパソコンを習える所でワードとエクセルとパワーポイントとアクセス習ったから。パワーポイントとアクセスはちんぷんかんぷんだったが、ワード、エクセルはまあわかったので。でも元気で働いてた時も郵便局4時間やった奴にいきなり仕事は紹介してくれないよなとも思った。 そして作業所行くのに、精神科の先生の許可が必要と言われ、私は精神科受診したばっかりだったので、電話とかで聞くのも面倒くさい、次行った時にしようって感じで次の時、聞き、あっさり許可もらって、就労センターに電話したら、こちらも都合があるのでと言われ、1ヵ月ぐらい待った。結局作業所行ったのは就労センター行ってから3ヶ月後ぐらいだった。どんな感じなのかなってドキドキして行ったら、オーナーは女の人で60代後半ぐらいの優しそうな人で、「簡単な仕事なので、明日からでも来てください」と言われうれしかった。 その作業所は入口は車椅子の昇降機があるけど、そこから車椅子降りて歩かないといけないので、リハビリにもなるなと思った。 実際は私が普通椅子から立ち上がったら、椅子を自力では戻せないので、立ち上がることもあまりできなかったが。 作業所はみんな助け合う場所、一般企業に入るまでのリハビリの場所って、オーナーが常に言ってたので、私も物とかとってもらう時は歩ける人や指導員に頼んだ。働いてる人が障害者ばっかりなので、仕事の最終チェックと何か問題がないか見守る指導員が二人はいた。その作業所は家族経営でオーナーの住居が奥にあった。いろんな障害者の人がいた。知的障害者、身体障害者、精神障害者。そして、私はデイサービスで重度の知的障害者には接したことあるけど、作業ができる軽度の知的障害の人に接したことがなかったので驚いた。デイサービスで重度の人に接するって言っても、そういう人達は一ヶ所のテーブルに固められていて関わりがなかった。だから作業できるような軽度の知的障害者の人ってどんな感じなのかなって思った。知的の人は3人いた。一人の人は、しょぱなから話しかけてくれて感じのいい人かなあって思ったら、ただただしゃべりぱなしの人だった。ずっと一人でしゃべり続けていた。作業って静かにするもんなんちゃうんって一時的にすごく頭にきたが、この人はこういう人なんだと諦めてなれた。もう一人はよくしゃべる人にちょかい出して人を揶揄する人だった。あの人とか、僕の後ろの人とか、持って回った言い方が気にくわなかった。人のミスはしつこく指摘するくせに自分のミスはどこふく風なのも嫌だった。この二人のせいで私の軽度の知的障害者に対する印象が最悪になったが、よくよく考えたら、障害のせいじゃなくもって生まれた性格だわって気づいた。 もう一人の人は小さいころはしゃべってたけど、犬に吠えられたショックで、口がきけなくなった。そんな漫画に出てくるみたいなエピソードもってる人が本当にいるんだとびっくりした。この人は一番奥の席から動かずに作業してた。私は一番手前だったので、関わりがなかった。やっぱりしゃべれないのがストレスらしく、若いのに白髪だらけだった。 後は精神障害者と身体障害者五人ぐらい。ボランティアさんが三人ぐらいだった。指導員は五人ぐらいだった。家族経営でオーナーの住居と作業所が一緒だった。 次の日から行った。1日目は午後だけだったが、行けそうだったので、2日目から1日行った。午後9時から3時半までと言うのもちょうどよかった。デイサービスが月、木あるので、作業所行くのは、火、水、金だった。作業は本当に簡単で一言で言うと内職だった。ゼリーの飾りのシール貼りしたり、鼻腔テープの箱づくり、テープの数数えて、ビニール入れて箱に詰める、お弁当のカップになるバランを4枚数えて台紙にさす、包帯を詰めるなど。一つ1円50銭とか2円の仕事だった。それを障害者に分配する。だから、お給料期待しないでねとオーナーに言われたが、本当に少なかった。でも久しぶりに自分で稼いだお金なのでうれしかった。最初のうちは夜更かししてるせいで朝起きれなかったし、パソコンして徹夜して眠りながら作業 することも3回くらいあった。確かにこれは規則正しい生活するためのリハビリだわって思った。たまたま私と同じくらいの年の精神障害の女の子がいたので、友達になれないかなあって思った。初日はダメだったけど、2日目からしゃべって友達になれたのでうれしかった。すごく久しぶりの友達だなって。で、いい感じで作業所行き出した。でも慣れると粗も見えてくる。1番問題あるのオーナーだとわかった。まず全然仕事をしない。してもすぐ飽きて家の方に行ってしまう。指導員に文句言われると現場に出るのはオーナーの仕事じゃないと開き直り。伝達ミスが多い。でもミスを認めないで人のせいにする。自分が正しいって思っているので、人の意見は聞かない。 最初の印象がよいだけにギャップにびっくりする。私は月曜日の昼、リハビリの先生から、もっと状態の悪い人が入ってと言われ、リハビリなくなった。それなら、作業所、月曜日の昼からも行こうかなあって思って行ってた。デイサービス切り上げて。オーナーはめったに現場にいないのに有線で音楽かけ出した。 でも音楽はうるさいって言われ、小鳥のさえずりにした。私は小鳥のさえずりは最悪な病院の音楽かけっぱなしを思い出して気分が悪くなった。たぶん単調、繰り返しが似てたんだと思う。それを指導員に伝えてて、私が気分悪くなるので、やめてほしいと言ったら、音楽、小鳥のさえずり聞きたくない人6名、どっちでもいい人6名にも関わらず、オーナーのすることが気にくわなかったら辞めていいって言われた。かなりショックだった。目の前が暗くなった。私は小鳥のさえずりが嫌で音楽かけるのはいいんですって言ったら口調が柔らかくなったけど。でもそんなしょうもないことで辞めさせようとするなんて。本当に辞めようかと思った。金輪際、オーナーのことは信用せんとこと思った。こんな人オーナーあかんで。よくよく聞いたら、元々はオーナーのご主人がやってて、亡くなったのでオーナーになったって言うよくあるパターンだった。オーナーの小学校からの同級生からの指導員がいて、お互い遠慮がないので、ずっとケンカしてるのもしんどかった。 後の指導員は亡くなったオーナーのお兄さんとオーナーの息子のお嫁さん二人だった。指導員はオーナーの悪口ばっかり言ってた。共通の敵がいると指導員達は団結強くなるけど。でも雰囲気はあまり良くない。 小鳥のさえずりの件で月曜日の昼、行くのが馬鹿らしくなって、元に戻した。オーナーがこんな感じのせいか新しい人が来ても続かなかった。前から来てた人もオーナーと衝突して辞めた。オーナーと幼なじみの指導員もオーナーについてけないってことで辞めた。その人自体はいい人だったけど、オーナーとのケンカばっかりだったのでうるさかった。新しくきた人は芯のしっかりしたおとなしい人だったのでほっとした。そんな感じで1年半くらい作業所行ってる。バスで通えるので楽。母とも月曜日の昼と土日以外は4時まで顔を合わせなくなったので、楽になった。 母の様子も変わった。母は全く効かない精神科の薬をやめた。もちろん医者にやめるなんて言ったら、怒られるから、薬はもらって捨てていた。無料とは言えもったいない。でも薬やめた方がよくなった。精神の薬は症状を押さえるため、無気力になってた部分もあったんだろう。 それとヘルパーさんの家で護摩たき、一緒にお経を読むのもよかったんだろう、週1回。私も行きたかったが護摩たきする所が三階のため、無理だった。母は60歳越えているため、ヘルパーさんが手伝って因縁を解く感じなのだけど、私は30代後半のため、自力で行して、因縁を解きなさいという感じだった。ヘルパーさんも行をちゃんとしだしたのが40代後半なので、私はまだ時間があるので多少横道にそれても大丈夫らしい。 確かにお経は全然読んでなかった。お経を読んでいい時間は午前3時から午後4時までと聞いてたので、作業所から帰ってくるのが4時だから無理だあと思ってた。ぎりぎりまで寝てるので 朝は無理だし。ちゃんとした数珠も買ったし、袈裟も買った。分厚いお経の本も買った。 でもあまりお経したい気にならなかった。2012年の1月になぜか思い立って、数珠のしまい方を教えてもらった。ちゃんとしまわないと悪い気とかが入ってきやすいらしい。それまでは全然覚える気なかったが、まさに急に思い立った。ヘルパーさんも「今、教えておかなあかん気がする」ってきちんと2日ぐらいかけて教えてくれた。  で、少しずつお経を読むようになる。 とりあえずやっぱり基本は般若心経だろうってことで、般若心経を少しずつ書いていくドリルみたいなのを買って、書きながら読んだ。 で、それから読んだり読まなかったりで、少しずつ習慣ついてきた。 後、午後4時以降も少しなら読んでOKってなったので、2013年からは3日ぐらいサボっただけで、ほぼ毎日読んでいる。4時に作業所から帰ってきて、4時半にマッサージさんが来てくれるまで読む。そう、私は家にマッサージさんを呼んでいる。最初は、パソコン買ってベッド脇に置いて不自然なかっこうでネットしてたら、肩が痛くてたまらんようになった。 姉にずっと「肩が痛いよ」と訴え続けてたら、図書館においてる瓦版という冊子で、 「健康保険適用でマッサージします。1回500円」というのを見つけてくれた。早速電話してみた。来てもらったら、とても感じのいい男性だった。とりあえずマッサージを受けてみる。初体験だが、なかなか気持ちいい。医療証を持ってると話したら、1ヶ月何回受けても1000円以上取りませんと言われたので、速攻で決める。医師の許可証がいるんですがと言われ、リハビリ科の先生を久しぶりに訪ねる。すぐにOKしてくれた。マッサージさんによると医師のプライドなんかもあって、OKしてくれない先生が多いらしい。リハビリ病院の先生じゃまず無理だったろうなとチラッと思った。今の先生はすぐに許可出してくれるので、助かる。年、何ヶ月がごとに マッサージ受けていいでしょうかって許可を取らないといけないので、マッサージを続ける限り、病院のリハビリの先生とも縁が切れないんだなあと思った。とりあえず今は週5回マッサージしてもらっている。最初の数ヶ月で肩の痛みはなくなったけど、月1000円ならいいかって感じだ。 ただヘルパーさんに来てもらってることとマッサージさんに来てもらってるのは自分で自分の時間を縛ってるなとは思う。どちらもその時間、家にいないといけないから。ただ母もヘルパーさんに来てもらってるので、二人で時間を分けられるのが楽。来年65歳になるから、介護保険になってしまう。母は自分のことは自分でできるので、時間減らされるのでは?とヘルパーさんに言われている。今まで昼1時間、月、火、木と晩1時間半来てもらってるので、これが減るとなかなかつらい。これが、介護保険になったら、週1回、1時間ぐらいになるんちゃうと脅されている。そういう人のためにまた法律が変わるみたいなこと、チラッと言ってたが詳しいことはわからない。私のほうが入ってもらえる時間数多いけど、母の方が目一杯入ってもらってる。 私は火曜と土曜はプールにも行っている。家の近くに障害者スポーツセンターというのがあって、無料でプール入れるからだ。最初の一年は姉に行ってもらってが、姉も仕事が忙しくヘロヘロになったので、2年目からはヘルパーさん、頼んでる。水の中って楽に歩けるので、本当によい。 歩行訓練とダイエットをかねて。とりあえず私は飛び降りる前より充実した日々を過ごしている。 精神科の先生も安心したのかこんなことを言った。 「精神は薬では治らない。薬はただ症状を押さえるだけです」なかなかに衝撃発言だった。つまり私が「死にたい、死にたい」言ってる間はいくら薬飲んでもよくならないってことだ。私がこんなによくなるって思ってなかったから、予想外によくなったので、出た言葉だと思う。しかし薬では治らないって。では精神科の先生ってなんのためにいるんだ。治らないってわかってるのに薬出して症状を押さえこむだけ。根本的な解決は自力で立ち直ってくださいって他力本願もいいとこ。どおりで精神病になったら、完治が難しいわけだ。精神科の先生には完治できる力がないんだもんな。幼なじみにも統合失調症にかかって消息を聞くたび、悪くなっている子がいて、心配だった。家にも突発的に何度もきたのでヘルパーさんに見てもらったけど、治せないっていう。この子のお母さんがきつい人なので、変に絡まれると嫌だから治さない。私の友達だからといって治す義理は ないって言われた時、地味にショックだったなあ。確かにそうなんだけど、力があるのに治さないんだ、えり好みするんだって。私達みたいにおとなしくいうことを聞く人は治すんだなあって。確かに幼なじみの子は症状がきつくて難しいんだと思う。しかし治してくれないってことに少しがっかりした。私には大事な友達でもヘルパーさんに関係ないもんなあ。 私が力つけてその子を治すには何年かかるかわからないし、他人を治せるまで力がつくかどうかも疑問だ。 でも私は治ったので幸せではある。飛び降りる前からうつ入っていて、それをごまかすためにネットにのめり込んでいた。ネットに夢中になってる間は現実を忘れられたから。だからネットやっている以外の時間は不安でいっぱいだった。すごく悪い精神状態だった。 飛び降りて、色々あって、今は落ち着いた気持ちになったのは本当にラッキーだった。 でもどうせなら飛び降りないでこの心境になりたかった。無理だろうけど。
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posted by とりあえず、やめとこ at 00:00| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
私が飛び降りたのは2006年の9月11日です。あなたが飛び降りたちょうど2年後ですね。奇遇ですね。
Posted by at 2014年05月24日 01:41
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